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2017年2月 2日 (木)

〝新しい文明〟について

 今年の運動方針には「〝新しい文明〟の基礎を作るための3カ年計画」のスタートが示されています。総裁先生が1月1日付のブログ『唐松模様』でこの運動に触れられているのを読んで、ひとつの希望を得ることができました。先生は、「〝新しい文明〟とは、人間の幸福と自然界の発展とが両立するような生き方であり、そんな生き方を支え、拡大する力となる信仰、哲学、科学技術、政治、経済の全体をいいます。」と説明されています。その上で、「私たちはそれを今後、ゼロから作り上げるのではありません。人類は何千年もの歩みの中で、すでにそれに該当する業績を世界各地で数多く生み出してきました。」と強調されています。すなわち、〝新しい文明〟とはこれまで世界に存在しなかった物事を指すのではありません。私たちはすでに〝新しい文明〟と共に生きているのです。ただ、それは従来の人類とその欲望を中心とした潮流に「取り入れられず」「脇に追いやられてきた」だけなのです。このことから、私は〝新しい〟〝旧い〟という言葉に単なる時間的な前後ではなく、もっと決定的な何かが内包されているという印象を持ちました。それは、この〝新しい文明〟という概念が世界的、普遍的な広がりを持つということです。というのは、このような〝新しさ〟は「信仰、哲学、科学技術、政治、経済」のいずれに携わる人であっても──というのは世界のあらゆる人が、ということです──自分自身が現在行っている活動の中からその源泉を汲み出し、生活に活かすことができるからです。自らの足元を顧みて、そこから発見しさえすればよいのです。低炭素の食生活、生活法、表現活動という3つの方向性は、それを発見するための手がかりであり、具現化していくための道筋ともいえるのではないでしょうか。

2016年12月 8日 (木)

神はわれらの御親

 今日の『新版 光明法語【道の巻】』の言葉は、「生きとし生けるものを生かし給える吾等のみおやなる神」(p.301)への呼びかけから始まっています。これこそ、私が真の神であると信ずる神を表現する言葉だと思いながら読ませていただきました。この呼びかけの中に示されているのは、神がいまも全生命を生かし続けておられること、そして私たちすべての御親であることです。なかんずく私が喜びを覚えるのは神が私自身の御親であるというそのことです。神が真・善・美であり全知全能であるということは、神が私の御親であるという事実がなければ私にとってどれほど切実な意味を持つことができるでしょうか。親と子という切っても切れない関係があればこそ、私は安んじて神を私の神として愛し、祈りを捧げることができます。神が「吾等のみおや」であることに、深く感謝いたします。

2015年7月12日 (日)

実相顕現への祈り

 総裁先生が7月7日付のブログ『唐松模様』に、「七重塔の意味するもの」と題して〝森の中のオフィス〟で執り行われた「万教包容の御祭」におけるお言葉を掲載されました。この中で先生は、次のように示されています。「つまり、七重塔が示しているのは、「時間、空間の制約を超えて、多様なものがすべてそろい、しかも一つの中心に統一されている」ことを表しています。それが、神の創造になる世界の実相であり、私たちはそれを縦・横・厚みの3次元の形に表現したものを目の前にしているのです」七重塔の姿を見る私たちは、塔の形を通してその象徴する意味を見つめます。それは、「すべて」「統一」ということです。そこには、神の御心の二つの側面である多様性と秩序ということが現れています。宗教においても、同じことがいえるでしょう。あまたの教えは神の御心というただ一つの真理を説いていますが、その秩序が現象界に反映されるまでにはまだまだ遠い道のりが必要であるようです。先生が紹介されているローマ教皇フランシスコの「回勅」がその道のりに確かな足跡を刻み、神の現れであるすべての生命が尊重される世界が実現することを祈ります。

2015年2月14日 (土)

真っ向から真理を

 『新版 生活の智慧365章』の冒頭に「はしがきに代えて」というご文章があります。谷口雅春先生が海外をご巡錫された際、どのように真理を説かれて来られたかが書かれているのですが、その中に「生長の家は万教帰一の真理を説いているのでありますが、観世音菩薩が、婆羅門に対しては婆羅門身を現じて得度せしめられると観音経にあるように、キリスト教国に於ては、キリスト身を現じて聖書の教えを真向にふりかざして真理を説いて来ました」(p.2)という一節があります。生長の家の本尊と称えられる観世音菩薩の姿を伝道者として現すときに、相手の身になり相手の立場に立って教えを説くことがいかに大切であるかを思います。しかし、ここで私にとって特に印象的だったのは「真向にふりかざして」という言葉でした。この言葉の意味について、次の一節には「イエスの教えを正直に割引なしに全面的に信ずること、そしてそれを本当に生活に実践することによってのみ、キリストと同じ奇蹟を実演し、本当に幸福な地上天国が実現することを得るのであること」(p.2)と説明されています。世界にはさまざまな問題が渦巻いています。ですが、それらの問題は大小にかかわらずすべて真理によって解決することができます。だからこそ、真理の内容には一毫たりともぶれがあってはならない。私もまた、神授のこの教えを「正直に割引なしに全面的に」信じ、仕事に、生活に実践しなければならないと思います。雅春先生ご自身さえ、「私もそれ(同書)を読んで、もう一層、生活に真理を実践する決意を新たにしたいと思っています」(p.1)と仰っているのですから。

2015年2月 5日 (木)

楽園創造の落とし穴

 総裁先生のご文章を読むとこれまで自分の思ってもみなかった方向から真理に光が当てられてハッとすることがありますが、現時点で最新のブログ『唐松模様』の記事「原宿“いのちの樹林”が完成」(2015年2月2日付)に説かれた『創世記』の“エデンの楽園”の解釈にも同じ思いがありました。「“エデンの楽園”を造った目的や動機とは何でしょうか? そこにきっと“人間の迷い”が反映しているはずです」──“楽園”の必要性は人間の迷いを示している。すなわち、「はなはだよい世界とは別に、あるいはその一角にわざわざ」“楽園”を創造しなければならないとすることの裏には、「神の創造世界には悪もあるという認識」があるというご指摘です。世界の聖地を巡る争いを考えると、特定の物や土地の“聖別”もあるいは神の御心とは異なることがあるのかも知れません。1月22日付の同ブログ「ていねいに生きること(3)」の末尾近くに「この「自然の恵み」の中には、人間内部の本性も含まれる」とあるのを読んだときにも思いましたが、私たちにとって「自然」とは「実相」そのものであり、「自然を伸ばす」とは人間を含むすべての存在の「実相を現す」ことに他ならないことを感じました。

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