2017年11月
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2017年11月17日 (金)

「神の愛に感謝する祈り」(3)

「人間こそ、あなたを意識し、あなたを知恵で理解し、あなたを愛することができる存在です」(p.11)──人間は神を意識し、理解し、愛することができることが示されています。もちろん、私自身が神を理解しているかといったら実に心許ない話ではあります。しかし、「神の子」にはそれが「できる」とこの祈りにおいては約束されているのです。それは、「神の子」とは神と人間の同質性を表す言葉にほかならないからではないでしょうか。神と人間が同質であればこそ、「神さまの御心を生きるのが、神の子・人間の使命です」(p.11)といわれる言葉も、抵抗なく受け入れることができるのです。神との同質性を自覚したとき、「使命」という他動的な言葉をそのまま自分の意思を表す言葉として理解してよいのです。同質性の自覚とは、角度を変えれば「愛」といってよいでしょう。「神の愛に感謝する祈り」の結尾は、私たちに「人生」を与えてくれた神の愛に感謝することで閉じられます。「人生」とは何かといえば、「神の子の表現の舞台です」(p.11)と唱えられています。それは、神が多様な人間の仮面をつけて演じる劇とも喩えることができるかも知れません。

2017年11月16日 (木)

 短い秋が峠を過ぎ、
 風が冷たくなってくると、
 うちの奥さんの目の色が変わります。
 あちこちの木にぶら下がっているオレンジ色の丸い柿を気にするようになります。
 うちの奥さんが欲しいのは、
 すでに甘くなっている柿ではなく、干し柿を作るためのまだ渋い柿です。
 それも、「百目柿」と呼ばれる大きな柿です。
 今日は店をいくつか回って、
 きれいな渋柿を仕入れてきました。
 今年は、柿が不作だそうです。
 奥さんはていねいに柿の皮をむいて、へたを紐で結んでいきます。
 渋柿なのに甘い匂いがします。
 それを、ふたつずつ組にして家の外にぶらさげます。
 全部うちで食べるのではなく、
 ほとんどが人にあげるための柿です。
 数えてみたら、
 前回、干した柿と合わせて九十三個ありました。
 整然と並んで、
 それは美しい光景です。

「神の愛に感謝する祈り」(2)

 私がここに存在していることは、神の愛によって定められています。そして、私の肉体がその一点に定位している大宇宙もまた、神の愛によって顕現しています。「宇宙は茫漠たる無の空間ではなく、神さまの愛が充ち満ちています」(p.9)と祈りにある通りです。祈りの中では、さらに地上の空や、雲や、海や、風や、虫や、鳥や、魚や、獣たちの存在に言及されています。また、地球の生命を育む太陽の巨大なエネルギーについて語られています。そのエネルギーは、地上の生物たちによって無数の愛の営みに変換されてゆくのです。神はなぜこの大宇宙の実相を創造されたのでしょうか。解答を求める前に、私はその疑問の中に静かにたたずむことを試みます。すると、疑問も解答もともに無化するほどの圧倒的な驚異の中に漂っている自分を見出します。そして、〝自然〟とは──あるものがあるがままにあるとは何と素晴らしいことなのかと感嘆するのです。

「神の愛に感謝する祈り」(1)

〝神は愛なり〟といわれます。とするならば、神の愛に感謝するとは神の存在のすべてに感謝するということにほかならないのではないでしょうか。その意味で、総裁先生が書かれた『日々の祈り』の冒頭に「神の愛に感謝する祈り」が置かれていることは、祈りに始まり祈りに終わる信仰生活の指針として誠にふさわしいことだと思います。祈りの一行目、「私は神の子であります」(p.8)と宣言されたすぐ後に、「私はあなたの愛を一身に受けて生きています」(p.8)とある言葉に、私は神をすべてのすべてとして生きる信仰者の覚悟を読みたいと思うのです。いついかなる時にも愛を動機として行動することが、信仰者には求められていると思うのです。私がみずからを「一身」と呼ぶことができること、すなわち私が限りある個として生を受けていることは、限りない神の生命の「結実」(神の自己限定態)である「肉体」がここに存在しているということです。それは、祈りの中に「私の肉体は物質ではなく、あなたの愛の表現であります」(p.8)と示されている通りです。愛によって生まれた肉体が愛以外の感情を表現するために使われることは、神の「御心」にかなうことではないのではないでしょうか。

2017年2月 2日 (木)

〝新しい文明〟について

 今年の運動方針には「〝新しい文明〟の基礎を作るための3カ年計画」のスタートが示されています。総裁先生が1月1日付のブログ『唐松模様』でこの運動に触れられているのを読んで、ひとつの希望を得ることができました。

 先生は、「〝新しい文明〟とは、人間の幸福と自然界の発展とが両立するような生き方であり、そんな生き方を支え、拡大する力となる信仰、哲学、科学技術、政治、経済の全体をいいます。」と説明されています。その上で、「私たちはそれを今後、ゼロから作り上げるのではありません。人類は何千年もの歩みの中で、すでにそれに該当する業績を世界各地で数多く生み出してきました。」と強調されています。

 すなわち、〝新しい文明〟とはこれまで世界に存在しなかった物事を指すのではありません。私たちはすでに〝新しい文明〟と共に生きているのです。ただ、それは従来の人類とその欲望を中心とした潮流に「取り入れられず」「脇に追いやられてきた」だけなのです。

 このことから、私は〝新しい〟〝旧い〟という言葉に単なる時間的な前後ではなく、もっと決定的な何かが内包されているという印象を持ちました。それは、この〝新しい文明〟という概念が世界的、普遍的な広がりを持つということです。

 というのは、このような〝新しさ〟は「信仰、哲学、科学技術、政治、経済」のいずれに携わる人であっても──というのは世界のあらゆる人が、ということです──自分自身が現在行っている活動の中からその源泉を汲み出し、生活に活かすことができるからです。自らの足元を顧みて、そこから発見しさえすればよいのです。

 低炭素の食生活、生活法、表現活動という3つの方向性は、それを発見するための手がかりであり、具現化していくための道筋ともいえるのではないでしょうか。

«神はわれらの御親