神示とは手紙のようなものではないかと思います。手紙を読むときには、それが誰から誰に宛てたものかを知ることが必要です。
神示の書き手は“神”である。まずはそう言うことができる。
「生長の家の神」について、『生命の實相』頭注版第2巻にはこのようにあります。
この神はわれわれの祖先の霊でも、われわれ家族個人の守護神でもなく、家のうちに祭祀してある神でもない、名はいうに及ばぬ、また祭祀するにも及ばぬ、光明輝く実相の世界に住む神である。(p.135)
宛先は誰か。『神示集』の冒頭に掲げられた「大調和の神示」では、読者は「汝ら」と語りかけられています。それは、神示が発表されたときに生きていたすべての人たちと想定されます。ここにひとつ考えるべきことがある。
神示を読んでいて思うのは、これは一般的かつ普遍的な真理だけを説いているような類の文章では決してないということです。そこにはしばしば時事的な話題が語られている。世界情勢のような大きな話題もありますが、生長の家信徒が体験したいわばローカルな話題も登場します。
語り口も非常にざっくばらんで、独白に近い印象すら受けるときがある。言い換えれば、神示の文章には文体、すなわち“個性”があるのです。
神の“個性”についてはあらためて考えたいのですが、ここで谷口雅春先生の立場が問題となってくる。神示を実際に書かれたのは、谷口雅春先生であることは自明のことだからです。
生長の家では「人間は神の子」であると説かれており、「神の子」とは畢竟「神そのもの」であるという説き方もされています。したがって人間が神示の書き手であるということに矛盾はありませんが、これについてはさらに『生命の實相』頭注版第3巻が参考になります。
「なんぴとでも生命の実相を説くものがあれば、われはその人に顕われて一体とならん」という最近の神示によって明瞭となったことでありますが、わたしの書くところわたしの生き方が生命の実相そのものになってきたので神がそこに顕われ給うたのであります。(p.36)
これは、いわゆる霊媒現象ではない。しかしながら、我々の意識が現象界を生きる仮の存在であるかぎり、神はその前に第三者的に現れるしかないのではないか……少なくともそれが神の一つの顕現方法であるとはいえるのではないかと思います。
だとすれば、谷口雅春先生は神示の書き手であると同時に受け手でもある。ひとの在り方が“神”に近づいたときに言葉が自ずと神からの語りかけの形式を取った芸術作品──神示をそう呼んでも誤ることはないと思います。
われわれは心のリズムを浄め上げ、高め上げ、高き霊界のリズムと調子を合わすことによってのみ、いっそう偉大に進歩せる霊界、天界、さらに進んでは実相世界のリズムを感受し、それによって人間界に偉大な芸術や、偉大な発明や、偉大な思想を生み出すことができるのであります。(『生命の實相』頭注版第2巻、p.165)
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