今日の法語から

眼を開くと云う動作を与えることによってのみ太陽の光は与えられるのである。(『新版 光明法語』 p.55、「2月1日の法語」より)

 恩恵を受けるにはまず自ら与えなければならないということが説かれています。しかし、受けるために私がしなければならないことの何とたやすいことか。要求されていることの何と小さなことか。眼を開くというただそれだけのことで、太陽の光という莫大な恩恵が私に与えられるのです。

 神の前では素っ裸にならなければならない。

 自分の身体も、心も、存在すらも捨て去ってしまわなければならない。

 自分の存在が消えてしまえばあとに残るのは神だけだ。

 ああ、神様、あなたを愛します。

 愛します。

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大調和の神示

汝ら天地一切のものと和解せよ。

 最初のセンテンスは、命令形です。つまり、私たちは神から命じられている。しかし、何の理由もなくただ盲従することを強制されているわけではない。それは私たちのために言われているのだという説明が次に続きます。

天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。

 天地一切のものと和解すれば、天下無敵の状態が実現します。戦って打ち勝たねばならないのだとしたら「無敵」とはいえない。すべて味方であるがゆえに、すなわち愛のゆえに何物も私たちを害することができなくなることが、本当の「無敵」であるといえます。味方であればそもそも害しようとも思わないでしょうから「害することはせぬ」とするのが自然なところを、「出来ぬ」と不可能を強調したところに力強いニュアンスが生れています。

汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。

 私たちは問題が起こったとき、原因として外部に敵を想定しがちです。あいつが自分を傷つけている、黴菌が病気にさせている、悪霊が祟っている……そして、戦って打ち勝とうとする。しかし、すべての問題の究極的な解決はただ一つと教えられています。それは私たち自身が天地一切のものと和解することだというのが、ここの主張です。

われ嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。

 この一文は面白いと思います。というのは、「嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教えた」のはキリストだからです(「マタイによる福音書」第5章23-24節)。つまり、この「神示」を語っているのはキリストであるということになる。正確には、「真理」としてのキリストということになるでしょう。生長の家の「万教帰一」の教えに基づく言葉です。

 もうひとつ言わねばならないのは、このセンテンスは「和解」が「祈り」に先行することを教えているということです。

本当の神様の世界には争いがないのでありますから、誰かと心の世界で争っておりましたならば、吾々がいくら神様に祈ってみた所で、その祈りが神様の心と波長の合わんところの祈りになるわけであります。だから先ず祈る前に心が和解しなければならない。互いに争っている人があったならば仲直りをして調和しておかなければならんのであります。(『人間無病の原理』 p.30)

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聖典講義(20)

 今年最初の聖典講義は1月16日(土)。通算20回目。

 土曜日はテキストを自由に選んでよいとのことでしたので、『新編 聖光録』(谷口清超先生監修、生長の家本部編)にさせていただきました。テーマは「神示を読む喜び」。

 構成は、まず巻頭の「大調和の神示」について集中して話し、続いてそもそも神示とは何かということを『生命の實相』などを典拠に説明。その後は時間まで残りの神示を順番に語っていこうと思いましたが、結局、2番目の「完成の燈台の神示」を読むまでで終わってしまいました。全体のバランスとしてはそれでよかったかも知れません。

 聖典講義は真理が語られる“み教えの庭”──

 仮に「語る者」と「聴く者」とに分かれて集められているように見えますが、本当はどちらも神様がそれぞれの役割を持つものとして姿を現されているのだと思います。

 そうして双方があることで、初めて真理の語られる場が成立する。神様の働きが現れる。

 聖典講義にかぎらず、すべての人が神において一体であるということは何かをするときの基本だなぁと思いました。

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神示について(2)

 神示とは、広義にはだれもが一定の条件のもとに“聞く”ことができるものと、谷口雅春先生は説かれています。『生命の實相』頭注版第8巻には、

われわれが執着を脱する程度に従って、計らい心が無くなる程度に従って、みがきをかければかける程度に従って、内から多量に光を放射するダイヤモンドのごとく、内から示されてくるものが「神示」であります。(p.43

とあります。第22巻には、

神示とは「生命」が肉体を通過しても少しも屈折しないで「生命」の黙示そのままが肉体の精神作用にあらわれる状態である。(p.2324

と定義的に表現されています。人間が「大日本神国観」にある「実相・現象渾然一体」を現ずる境地と考えればよいかも知れません。現象が、実相そのままに完全な姿で表現されたものを「真象」と呼びます。人間だけとはかぎりませんが、ともかく本地は実相にあって現象はそれがわれわれのあり方によって屈折して捉えられたものに過ぎません。

一方、谷口雅春先生が発表された「神示」の成立については、『光明道中記』に、

私の著書の中に「神示」と書いた部分は神想観中、心が純粋になった時、直感された真理をその直後に書いたのだ。(p.311

とあります。ここには「神想観中」とありますが、「使命邁進の神示」には「執務中神示」と但し書きがありますから、かなり自由にインスピレーションを受けられていた様子がうかがえます。また、同書の続きには、

「神は善である。至高の善である」そう云うことは神示である。その文章が神示なのではなく、示された真理が神示なのである。理窟はないのだし、運算も三段論法も要らぬのである。(p.312

 というご文章があります。これを読むと、言葉で語られているということは神示の絶対的条件ではないことがわかります。さらに、その続きにはこのようにあります。

真理の直接把握を「神示」と言い、二重人格的に教えられるのを霊示と言い、霊媒現象と言うのである。「神示」とあるのを神さまが物を言ったと思って貰いたくない。(p.313

 神示とは、神が人間にお示しになるというよりも、「人間が神を示す」ものであるのかも知れません。

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宗教書を読む

 私が宗教書を読むのは、一つにはそこからさまざまな信仰のあり方を学び、対照させて考えることによって自身の信仰を深めるためです。

 生長の家総裁、谷口雅宣先生は『衝撃から理解へ イスラームとの接点をさぐる』の「はしがき」に、

信仰者の立場からの他宗教との「共通点の認識」は、現実世界に直接に影響する。(中略)“共通点”を見出し、それを認め合うことによってのみ宗教間の共存が可能になる、と私は考える。(p.56

 と書かれています。一方、その共通点については厳しく見極めねばならないことについて、同書の本文中に、

(イスラームについて)本当に“正しい宗教”であり、生長の家とも共通する“神髄”をもっていると主張するならば、具体的に何が正しく、何が共通するかを自ら理解しないかぎり、「万教帰一」は“空念仏”同然だろう。(p.214215

 とあります。ここで語られているのは、教義の適用についてです。われわれは教義を現実に基づいて検証することによって、自らの信仰が正しいということを説得力をもって他に示すことができなければなりません。

 宗教書に話を戻せば、私がクリスチャンの著作を読むときに強く感じるのは理解と信仰とは異なるということです。つまり、理解することはできても信仰することはできない事柄がそこには含まれている。ただし、それは私が生長の家信徒であるからであって、キリスト教の枠組みに入ってしまえば信じることが可能であることは疑えません。

 また、受け入れることが難しいことの中には、実は言葉の使い方によるところが大きい部分もあります。ときには相反する意味の言葉さえ、その構造を見てみれば「これはひょっとして同じことを言っているのではないか」と思うことが多いのです。

 対話の可能性は共通点と差異との往復にあり、その緊張感に耐えることができなくなったときに争いが起るということがいえるでしょう。しかし、宗教の論理は形而上的思考(もしくは“机上の空論”)を徹底的に排除するところにある。貫徹できなければ真理であるとはいえないのです。その意味で、われわれは常に共通点に立ち続けなければならない。

 宗教書を読むときにも、そういった姿勢で読んでこそ得るところが大きいと思っています。

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神示について

神示とは手紙のようなものではないかと思います。手紙を読むときには、それが誰から誰に宛てたものかを知ることが必要です。

神示の書き手は“神”である。まずはそう言うことができる。

「生長の家の神」について、『生命の實相』頭注版第2巻にはこのようにあります。

この神はわれわれの祖先の霊でも、われわれ家族個人の守護神でもなく、家のうちに祭祀してある神でもない、名はいうに及ばぬ、また祭祀するにも及ばぬ、光明輝く実相の世界に住む神である。(p.135

宛先は誰か。『神示集』の冒頭に掲げられた「大調和の神示」では、読者は「汝ら」と語りかけられています。それは、神示が発表されたときに生きていたすべての人たちと想定されます。ここにひとつ考えるべきことがある。

神示を読んでいて思うのは、これは一般的かつ普遍的な真理だけを説いているような類の文章では決してないということです。そこにはしばしば時事的な話題が語られている。世界情勢のような大きな話題もありますが、生長の家信徒が体験したいわばローカルな話題も登場します。

語り口も非常にざっくばらんで、独白に近い印象すら受けるときがある。言い換えれば、神示の文章には文体、すなわち“個性”があるのです。

神の“個性”についてはあらためて考えたいのですが、ここで谷口雅春先生の立場が問題となってくる。神示を実際に書かれたのは、谷口雅春先生であることは自明のことだからです。

生長の家では「人間は神の子」であると説かれており、「神の子」とは畢竟「神そのもの」であるという説き方もされています。したがって人間が神示の書き手であるということに矛盾はありませんが、これについてはさらに『生命の實相』頭注版第3巻が参考になります。

「なんぴとでも生命の実相を説くものがあれば、われはその人に顕われて一体とならん」という最近の神示によって明瞭となったことでありますが、わたしの書くところわたしの生き方が生命の実相そのものになってきたので神がそこに顕われ給うたのであります。(p.36

これは、いわゆる霊媒現象ではない。しかしながら、我々の意識が現象界を生きる仮の存在であるかぎり、神はその前に第三者的に現れるしかないのではないか……少なくともそれが神の一つの顕現方法であるとはいえるのではないかと思います。

だとすれば、谷口雅春先生は神示の書き手であると同時に受け手でもある。ひとの在り方が“神”に近づいたときに言葉が自ずと神からの語りかけの形式を取った芸術作品──神示をそう呼んでも誤ることはないと思います。

われわれは心のリズムを浄め上げ、高め上げ、高き霊界のリズムと調子を合わすことによってのみ、いっそう偉大に進歩せる霊界、天界、さらに進んでは実相世界のリズムを感受し、それによって人間界に偉大な芸術や、偉大な発明や、偉大な思想を生み出すことができるのであります。(『生命の實相』頭注版第2巻、p.165

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断章

 慣れてきたということは、ハードルがそれだけ高くなっていることを意味します。

 ハードルがあることにすら気づかず、いつの間にか蹴倒して走っているようなことにならないよう自戒したいと思います。

               ○

 私のなすべきことは、何よりも「与える」ことでなければならないと思います。与えるべきものの第一は真理です。それがなければ、どんな善い行為を促そうとも「救い」にはならず、一方的に「要求」を押し付けることになってしまうのではないでしょうか。

 もっとも、たとえ押し付けであっても善を実行した人は必ず益を得るでしょう。それは、私ではなくその人の手柄なのです。

               ○

 常に神様が創られた世界の総体を意識しなければならないと思います。

 真理はひとつ、ということは真理は組織体であるということです。どの部分もその他の部分とかかわりを持たないということはありえないはずです。

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静岡教区冬季中高生練成会

 だいぶ時間が経ってしまいましたが、静岡教区の冬季中高生練成会に出講してまいりました。

 昨年1226日から28日の3日間。私の担当は「神の子はすばらしい」「お父さんお母さんありがとう」「夢を描こう」の3講話(各約50分)と、神の子ポスターおよびドリームマップの作成の時間の講評(各約15分)です。

まず印象に残ったのは運営のスムーズさで、背後にある今回の努力と受け継がれてきた方法論の歴史を感じました。行事の一つ一つに真理のバックグラウンドがあり、3日間のプログラムの流れに統一感が感じられたのもよかったです。とても勉強になりました。皆さん、本当にありがとうございました。

講話を準備するに当たって目標としたのは、やさしい言葉で真理の骨格を伝えることでした。生長の家では物事をどう考えるか、世界をどう見るかということ自体を知ってもらいたいと思いましたが、話し方が下手なせいもあってただの“退屈な授業”になってしまったと反省しています。

しかし、一番考えさせられたのは参加者の中高生たちのことで、身近に中高生と接する機会がないので一般的なことはわかりませんが、同じ年頃の自分とくらべていろんな点でしっかりしていると感じるとともに、しっかりせざるをえない子供たちを取り囲む問題の根深さを想像させることもあったりして、複雑な感情(と考えるべき宿題)が残りました。

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聖典講義(19)

 昨日は、私の19回目の聖典講義でした。

 講義をさせていただくようになったころ、聴講者はどんな方たちなのか、何を期待して来られるのかわからなくて、どんな話をすればよいのか悩んだことを思い出します。

 今は、その悩みはありません。みんな生長の家の教えを学びに来られていることは確かだからです。

 聖典講義に来られるのは、生長の家についてはある程度知っておられる方々でしょう。「予感」だったり、「希望」だったり、あるいはすでに「確信」であったり、その様相はさまざまでしょうが、真理の存在に触れてもっと知りたい、学びたいから訪ねて来られる。ここに何かあると思われるから座って聞いておられる。その心に全力で応えなければならないと思います。

 今回のテキストは、『小閑雑感 Part 14』。テーマは「上を向いて歩こう」でした。

 講義のために勉強していると、ある時点で「ああ、これで話になる」と感じる地点がやってくるものですが、今回はそれが前日のこと。それまで、なかなかモチーフが決まらなくて焦りました。

 結局、テーマと同タイトルのご文章を導入部とさせていただき、中心部分は「“百万の鏡”が映すもの」と「対称と非対称」の2つのタイトルから引用しながら、現象的な心の働きを説明。最後に、実相の “すべて一体の世界観”を話して締めくくりとしました。

 肉食についても語りましたが、自然界の“弱肉強食”の話題からそこへつなげるのは少々牽強付会だったと反省しています。

 人を救うものは真理である。そう信じられることは幸せです。

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『乳がんだって 生きていく あたし』

 闘病記の類はほとんど読まないのですが、にもかかわらず興味を引かれたのは著者が病気を通してクリスチャンになったという説明を読んだからです。功徳ではなく、信仰そのものが現実的力となる瞬間が描かれていればという期待がありました。もう一つ、ホームページで著者(イラストレーター)のソウルフルな絵を見て感じるところがあったことも決定的でした。

 結果、期待は裏切られませんでした。感動的だったのは、著者が祈りに対して神が応えてくれたと信じられる瞬間を持ったこと、そしてにもかかわらず疑いを抱いてしまう心や乗り越えきれない不安についても偏りなく描いていることです。著者には「この人は信じていないことまで信じたつもりになっている」という信仰の不健全さがありません。

 “嘘のない生き方”をしている人なのでしょう。

 3章の最後のコマの笑顔(これは、いわゆる漫画エッセイです)が素直に受け取れるのも、それまでの懊悩や悲しみの表現を通して著者を信じられるようになっているからだと思います。

■ 『乳がんだって 生きていく あたし』
   (クリバリ ユミコ著/いのちのことば社)

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