キリスト? 【大調和の神示】

 巻頭の『黙示録』の抜粋を読むとき、聖書について知識のある読者ならば、書かれているのがキリストであることは常識である。しかし、実際ここで読むことができるのは「人の子のごとき者」が姿を現して語ったということにすぎない。「人の子のごとき者」、すなわち聖書では「キリストのごとき者」であるが、文字面だけを読むならば、それは「人」の形をしているが「人」ではない者、少なくとも「人」であるかどうか判断がつかない者、その外見が「人」というにはあまりに激越で超現実的な存在であるような者とのみ受け取ることができるだろう。

 一方、「『七つの燈台の点燈者』の神示」の語り手がキリストであることは、「神の祭壇の前に供物を献ぐるとき」によって示唆されている。なぜなら、この一文の典拠は『新約聖書』のキリストの言葉にあるからだ。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。 (「マタイによる福音書」第5章23-24節、新共同訳)

 そしてまた、「ここに見よ、彼処に見よ」の表現は、次の文章と似通っている。

わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。(……)そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。」(同、第24章5、23節)

 しかし、やはりキリストの名が直接語られることはない。いずれの文章においても、顕在するのはキリストであってキリストではないとも呼べるような顔を隠された存在なのである。

 そこで喚起すべき問いは、

○生長の家にとって「キリスト」とは何か?

 というものである。

 その答えを性急に提出しようと試みることはしないことにする。

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諸悪莫作 衆善奉行

 最近、それぞれつながりのない二人の方から「諸悪莫作 衆善奉行」という言葉を聞いて感慨を深めるということがあり、今日の聖典講義の中でも言及してしまった。
 道林禅師が白楽天に「3歳の子供でもわかるが、80歳の老人でもできないものだ」と教えたという話は有名だろうが、生長の家では谷口清超先生が何度か引用されている。谷口雅春先生がどこかに書かれているかどうかはわからない。もともとは『法句経』などにある「七仏通誡偈」の前半の言葉で、釈迦を含む7人の仏が共通して説いた教えを韻文にまとめたものだそうである。
 悪いことはするな、善いことをせよ。
 それだけのことである。
 が、悪とは何であろう、善とは何であろう。
 生長の家信徒である私たちにとって、それは先生方がするなと書かれていることはせず、せよと書かれたことは行うということ以外には決してないであろう。

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自他一体について:【大調和の神示】

 昭和6年9月27日は「大調和の神示」が示された日である。これを記念して、昨夜は総本山で神示祭が執り行われたはずである。

 各神示においてそれぞれ神示祭が行われるのではあるが、「大調和の神示」については特別荘重であるらしい。らしいというのは私自身は参列したことがないからである。以前、他の神示のお祭りに参列したことがあるが、極めてあっさりしたものだった。昨夜は妻の母が団体参拝練成会の行事の中で参列したはずなので、どのようだったか聞いてみたいと思っている。

 それほど、生長の家信徒にとってこの神示は特別なものである。『生命の實相』の冒頭に(「黙示録」に続いて)「『七つの燈台の点燈者』の神示」として掲げてあることからも明らかだが、生長の家の教義の核心にあるものがこの神示には表現されていると思う。それは「自他一体」の真理である。

 私はしばらく総裁先生の『日々の祈り』を聖典講義のテキストに使わせていただいているが、特に自然について語られるところに、この「自他一体」ということがいかに繰り返し強調されているかがわかる。現今の環境保全活動の背景にはこの真理が流れている。

神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。

 と、この神示にある。神はすべてのすべてであるから、神と天地万物とを切り離すわけにはいかないのである。それは神ご自身の働きにすら留保を与えるほどのものである。かえって天地すべてのものと和解したとき、神は人の中に顕現することができるのである。

 また、一体であるということは単に万物が無差別に同じ取り扱いを受けるという意味ではないことも、神示の中には示されている。

汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。

 とあるように、大小の違い、すなわち役割や個性に応じた待遇のあり方についても示唆されている。この世は単色ではなく、濃淡さまざまな無限の色合いに染められており、各存在者は内包する意味によって関係や位置や優先順位が秩序づけられている世界である。

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己れ未だ度らざる前に:【黙示録】

『生命の實相』全巻の冒頭に「黙示録」の一節が掲げられていることについては以前も書いたが、この一節のテーマは「開示」である。キリスト(真理)が現れて、生き通しにして万教帰一の教えを述べ伝えることを命じている。人はただ、この真理を証し続けるだけである。

 以前は、私がまず真理を知り、それがあふれ出すように人にも伝わっていくことが理想だと思っていた。しかし、今は人に伝えることが第一であり、私はそのために真理を学ぶのが本当だと考えている。順序が逆だったのである。「菩提心を発すというは、己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり」という『修証義』の言葉の意味もそこにあるのではないかと思う。私の悟りが大事なのではない。神とその真理の運動が「最先(いやさき)」であり、「最後(いやはて)」なのである。

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「すべては一体」と実感する祈り(1)

 次回の聖典講義の準備のために、また前提となる読解の作業を試みてみたいと思います。テキストは『日々の祈り』から、“「すべては一体」と実感する祈り”です。

 神はすべての存在の創り主にてあり給う。我は神の子として、神の創り給いしすべての存在の懐の中に抱かれているのである。だから我は、すべての真実存在と一体であり、すべての真実存在は我と一体にして、我を包み、庇護し、安らぎを与えてくれるのである。真実存在は神の表れであるから、相互に不和はなく、不調和はなく、戦いや争いはないのである。我とすべての真実存在も、だから大調和の中で神の愛に包まれているのである。(p.70)

 私は神の存在を信じ、神がすべての存在を創り給うたことを信じる。私は神から生れた神の子であり、私と共に存在するすべてのものも神にその起源を持つ。神は真実であるから、神が創り給うたすべてのものも真実である。しかし、ここで「真実存在」と特に言いかえられているのは“偽なる存在”もまた考えることができるからである。正確にはすべての存在は神に由来し、ゆえにすべては真実であるから“偽なる存在”とは矛盾した言葉である。「真実存在」のみがあるのであって、“偽なる存在”は本来ない。“ない”ものを“ある”と思うから、幻をめぐって互いに不和や不調和を来し、戦い、争うことになるのである。

「真実存在」とは「神の表れ」である。神の創造は神以外のものを材料として、例えば人間が粘土をこねたり鑿で削ったりするようにして行われたわけではないことが聖経『甘露の法雨』に書いてある。神の創造とは神の自己展開であり、創造されたものもまた神と異なるものではない。したがって存在の実相は神そのものである。生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものは神において一体である。もともと一体であるものに不調和もなければ争いもない。だから、「相互」とは一つのものの中の部分同士の関係である。その個性の相違は、全体の中にそれぞれあるべき場所を持ち、そこで固有の性質を発揮するなら齟齬や軋轢をもたらすことはない。

 あなたは神であり、私は神である。互いに一体であり、創造の原初から生かし合い、調和し合っているのが本来のすがたである。自他一体の自覚を愛と呼ぶ(『幸福生活論』, p.260)。神における一体の自覚は「神の愛」の認識である。

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天照大御神の御徳を讃嘆する祈り(2)

 第2段落に入ります。

 イザナギの命から生まれた三貴神――天照大御神、月読命、須佐之男命――は、それぞれ太陽、月、地球(海)の象徴である。

 再び象徴について考えます。なぜこれらの御神格が天体という自然界の存在を象徴しなければならないかということです。一般的な生活意識からいえば、自然界の存在は私たちが生存できる唯一の環境である。これを物質世界と呼んでもいい。この生活意識が、信仰の立場においては別の様相を見せることは前回も触れた通りです。生長の家の信仰においては、この一般的な生活意識と並んで別の世界のリアリティを感じつつ生きるということが信仰生活の眼目となる。むしろ一般的な生活意識よりも別の世界のリアリティを上位に置く、と言ってもいいでしょう。海を例にとれば、波という目に見える形の奥に水という実質があるように、表層的な物質世界の奥により実質的な世界がある。生長の家で前者を現象の世界、後者を実相の世界と呼んでいることは言うまでもありません。

 この実質的な世界から見れば、自然界の存在は、一般的な語法には反しますが、より抽象度の高い世界といえます。その自然界の存在――ここでは太陽をはじめとする天体――のあり方を、御神格の持つより実質的な世界に近い性質(御徳)を表現するものとして辿っていくことが、この祈りの筋道であるともいえます。

「地球=海」という認識は、日本神話の中で須佐之男命が海原を治めるように命じられたことを受けているはずですが、地球の表面積の約7割を海が占め、「水の惑星」などと呼ばれることから考えても納得できることだと思います。この観点は、東日本大震災の大津波や異常気象と関連させて、もっと大きく扱われてもよいのではないかと個人的には感じています。

天地創造の神、イザナギの命の左(日足り)の目を洗われたときに誕生したのが天照大御神であり、右(水極)の目を洗われたときに誕生したのが月読命であり、そして最後に鼻を洗われたときに建速須佐之男命が誕生した。

 御神格の表記や神話におけるエピソードは文献によって相違があるようですが、総裁先生は『古事記』に準拠して書かれているようです。

 左を「日足り」、右を「水極」と書くことについては、谷口雅春先生の著作に詳しく説明があります。「日足り」の「日」は「火」「陽」と表記されている場合もありますが、意味的な違いはあまり無いと考えてよいでしょう。また、左は男、右は女を象徴するともいわれていますが、女性である天照大御神はイザナギの命の左目から誕生したとされています。このことについて雅春先生が何かお書きになっているかは知りませんが、祈りの中でも御神格における男女の役割には言及されていません。総裁先生は今年の「建国記念の日祝賀式」で天照大御神が女性であることの意味を述べておられますので、それを援用したい誘惑にもちょっとかられますが、祈りの文脈とはやはり別物でしょう(ただし、実際の講義では時間があれば脱線することもありだと思う)。ここでは単純に「日」だから「太陽神」なのだと受け取って、軽く通り過ぎたいと思います。

このことから、地球(海)は日の神(陽)と月の神(陰)との大きな影響下にあることが分かるのである。天照大御神は太陽神であるとともに、実相世界を人格的に象徴している。月読命は、月の神であるとともに霊界の人格的象徴である。そして、須佐之男命は地球の神であるとともに物質界を人格的に象徴している。

 地球が2柱の神の影響下にあると書かれていて、太陽と月の影響下にと書かれていないことは面白いと思います。異なる世界にあるはずの天体と神、物質と超越的存在とが横断的に記述されているわけです。日の神は「陽」、月の神は「陰」とも付言されていますが、これはもちろん谷口雅春先生が説かれている陰陽二元の創造原理に立脚した表現です。太初にあった未分の渾一宇宙が陰と陽との二元に分離し、互いに結び合うことによってすべてが存在の舞台に登場するというのがそれです。続いて天照大御神は実相世界、月読命は霊界の人格的象徴とも説かれているので、実相世界は陽、霊界は陰の性質を持つというふうに敷衍することもできるかも知れませんが、祈りの焦点はもちろん日本神話の重要な三神格が、それぞれ実相世界、霊界、物質界の3つの世界を象徴しておられるというところにあります。物質界は実相世界と霊界との「大きな影響下にある」。

 このあたり、祈りが佳境に入ってきたことを感じてちょっとぞくぞくします。

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天照大御神の御徳を讃嘆する祈り(1)

 最近、聖典講義中にテキストについての認識が甘かったと感じることがよくあって、予習の大切さを痛感しています。ついては、このところすっかりさぼり癖がついているこのブログを利用して、次回の講義のテキストをじっくり読む試みをしたいと思います。いわゆるレジュメの作成というわけではなく、その前段階となる僕自身の認識を深めることが目的なので、書いた通りに講義を行うつもりはありませんが、あれこれ考えることを通じて講義がよりよいものになればと思っています。

 次回のテキストは、『日々の祈り』の「天照大御神の御徳を讃嘆する祈り」です。1回につき1つの祈りを取り上げているので、このテキストを用いた12回目の講義ということになります。それに「天照大御神と現代」といういささか大仰なテーマを掲げたことには、さして特別な意図はありません。私なりの茶目っ気とお考えいただければ幸いです。

 第1段落は次の1文です。

 天照大御神は太陽の象徴であるとともに、「与える愛」の象徴である。

 はじめに象徴ということについて考えてみたいと思います。「天照大御神は太陽の象徴である」――聞いた話ですが、これを読んだある人が逆ではないかと言ったそうです。「太陽は天照大御神の象徴である」――なるほど、もっともな気もします。象徴とは「抽象的な思想・観念・事物などを、具体的な事物によって理解しやすい形で表すこと」とOCN国語辞書にあります。前半が主体で、後半は説明のために持ち出された従属的なものという感じがする。その人には、祈りの表現が神様よりも太陽という物質を主にして考えているように受け取れたのでしょう。しかし、先ほどの定義に即して考えてみると少し違った見方をすることもできそうです。

「天照大御神」と「太陽」とどちらが抽象的な言葉かといえば、それは立場によって違うのではないかと思います。普通、我々は物質の世界を唯一の世界だと信じて生活していますから、太陽のほうが具体的な存在であると思っている。そういう人にとっては、天照大御神なんて古い昔話に出てくる架空の存在かも知れない。でも、信仰の立場はそうではない。生長の家では世界の実相(本当の姿)は神(普遍神)であると説いていますから、神(個別神)である天照大御神は物質に過ぎない太陽よりも遙かに実体に近いと考えることもできる。その場合、太陽は天照大御神よりも抽象度の高い存在ということになりますから、やはり「天照大御神は太陽の象徴」という表現が妥当だということになります。

 後に見ますが、この祈りには「天照大御神の表現である太陽」(第5段落)と書かれた個所もあります。すなわち、太陽は天照大御神の顕現ないし作品であるといえるかも知れません。どちらに主体性があるかは明白でしょう。物質世界は、より真実な世界によって説明される(意味を付与される)べきものなのです。

 では、「与える愛」とは何か。あえて定義を試みれば、「与えるという行為が愛をもって為されるとき、その愛を「与える愛」という」となるでしょうか。生長の家では「奪う愛」という言葉と対になって、「与える愛」こそ本当の愛であり、「奪う愛」は愛と呼ぶに値しないと説かれることも多いと思います。ですから、「「与える愛」は愛そのものであるが、愛に必然的に含まれる「与える」という性質を表記して特に強調した言葉である」といったほうが正確かも知れません。いずれにしても、「天照大御神は「与える愛」の象徴である」という言い方は、信仰を持つ持たないにかかわらず(すなわち天照大御神を架空の存在と考えた場合にも)違和感なく受け入れられる表現なのではないかと思います。

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法語を読む

何よりも君が既に神である実相を見て悦ぶのだ。感謝するのだ。
(『新版 光明法語』, p.156)

 神は完全であり、神と私は一体である。私に何かが欠けているという認識をもらたす観念は、すべて誤りである。私自身に何かを付け加えたり、何かしなければ不完全であると考えるすべての思考は神に背くものである。

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法語を読む

神が吾々神の子に求めていられる処のものは先ず「吾を認めよ」と云うことである。
(『新版 光明法語』, p.156)

 神想観しながら考えていた。私がいま呼び掛けている神とは何者なのか?

 無限の愛、無限の智慧、無限の生命……か?

 それはそうなのだが、それらはいったい“第一のもの”だろうか。ひょっとしたら“その余のもの”にすぎないのではないか。

 第一に認めるべきは、神はわが御親であること、

 私を生み、今にいたるまで生かし続けていられるということ、

 生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものをわが兄弟姉妹として生み給うたということではないのか。

 例えば、それは私の両親がいかに愛深く金も地位もある立派な人格者であろうとも、私にとってはそのすべての条件を合わせたよりもその人がまさに私の父であり母であることのほうが大事なようにである。

 親自身ではなく、親の遺産に心を懸けているものは良い子供とはいえない。

 ただ親を愛し信頼すること。

 それは、子にとっても最大の喜びであろう。

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嵐の中の舟

 嵐の中、舟は揺れる。

 おびえた弟子たちが、眠る師にすがりつく。

「私たちはおぼれて死にそうです」

 目をさましたキリストは言う。

「あなたがたの信仰はどこにあるのです」

 福音書記者ルカが伝えるエピソードである。

 ……

 信仰者とは、いつも神からただ一つのことを問われている存在なのだと思う。

「あなたがたの信仰はどこにあるのです」

 と……。

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