第2段落に入ります。
イザナギの命から生まれた三貴神――天照大御神、月読命、須佐之男命――は、それぞれ太陽、月、地球(海)の象徴である。
再び象徴について考えます。なぜこれらの御神格が天体という自然界の存在を象徴しなければならないかということです。一般的な生活意識からいえば、自然界の存在は私たちが生存できる唯一の環境である。これを物質世界と呼んでもいい。この生活意識が、信仰の立場においては別の様相を見せることは前回も触れた通りです。生長の家の信仰においては、この一般的な生活意識と並んで別の世界のリアリティを感じつつ生きるということが信仰生活の眼目となる。むしろ一般的な生活意識よりも別の世界のリアリティを上位に置く、と言ってもいいでしょう。海を例にとれば、波という目に見える形の奥に水という実質があるように、表層的な物質世界の奥により実質的な世界がある。生長の家で前者を現象の世界、後者を実相の世界と呼んでいることは言うまでもありません。
この実質的な世界から見れば、自然界の存在は、一般的な語法には反しますが、より抽象度の高い世界といえます。その自然界の存在――ここでは太陽をはじめとする天体――のあり方を、御神格の持つより実質的な世界に近い性質(御徳)を表現するものとして辿っていくことが、この祈りの筋道であるともいえます。
「地球=海」という認識は、日本神話の中で須佐之男命が海原を治めるように命じられたことを受けているはずですが、地球の表面積の約7割を海が占め、「水の惑星」などと呼ばれることから考えても納得できることだと思います。この観点は、東日本大震災の大津波や異常気象と関連させて、もっと大きく扱われてもよいのではないかと個人的には感じています。
天地創造の神、イザナギの命の左(日足り)の目を洗われたときに誕生したのが天照大御神であり、右(水極)の目を洗われたときに誕生したのが月読命であり、そして最後に鼻を洗われたときに建速須佐之男命が誕生した。
御神格の表記や神話におけるエピソードは文献によって相違があるようですが、総裁先生は『古事記』に準拠して書かれているようです。
左を「日足り」、右を「水極」と書くことについては、谷口雅春先生の著作に詳しく説明があります。「日足り」の「日」は「火」「陽」と表記されている場合もありますが、意味的な違いはあまり無いと考えてよいでしょう。また、左は男、右は女を象徴するともいわれていますが、女性である天照大御神はイザナギの命の左目から誕生したとされています。このことについて雅春先生が何かお書きになっているかは知りませんが、祈りの中でも御神格における男女の役割には言及されていません。総裁先生は今年の「建国記念の日祝賀式」で天照大御神が女性であることの意味を述べておられますので、それを援用したい誘惑にもちょっとかられますが、祈りの文脈とはやはり別物でしょう(ただし、実際の講義では時間があれば脱線することもありだと思う)。ここでは単純に「日」だから「太陽神」なのだと受け取って、軽く通り過ぎたいと思います。
このことから、地球(海)は日の神(陽)と月の神(陰)との大きな影響下にあることが分かるのである。天照大御神は太陽神であるとともに、実相世界を人格的に象徴している。月読命は、月の神であるとともに霊界の人格的象徴である。そして、須佐之男命は地球の神であるとともに物質界を人格的に象徴している。
地球が2柱の神の影響下にあると書かれていて、太陽と月の影響下にと書かれていないことは面白いと思います。異なる世界にあるはずの天体と神、物質と超越的存在とが横断的に記述されているわけです。日の神は「陽」、月の神は「陰」とも付言されていますが、これはもちろん谷口雅春先生が説かれている陰陽二元の創造原理に立脚した表現です。太初にあった未分の渾一宇宙が陰と陽との二元に分離し、互いに結び合うことによってすべてが存在の舞台に登場するというのがそれです。続いて天照大御神は実相世界、月読命は霊界の人格的象徴とも説かれているので、実相世界は陽、霊界は陰の性質を持つというふうに敷衍することもできるかも知れませんが、祈りの焦点はもちろん日本神話の重要な三神格が、それぞれ実相世界、霊界、物質界の3つの世界を象徴しておられるというところにあります。物質界は実相世界と霊界との「大きな影響下にある」。
このあたり、祈りが佳境に入ってきたことを感じてちょっとぞくぞくします。
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